○ この構造物の南側は アクロポリスの丘の壁面と平行しており、西の境は ブラウロニオンに接している。開口部の 3 つ付いた北側は ストアに面しているが、このストアは 後年 B.C. 4 世紀の始めに加えられたものであって、その正面には円柱が 18 本立っている コロネ−ドが付いたものであった。このストアの北東の隅が、パルテノン神殿の西端面の所で 一段と高い平面に人々が昇ってゆく 石を刻んで作った段の一区画を毀わしている。
パルテノン神殿 ( page 37 図 01 - No.43)
○ アクロポリスの丘の上の同じ区画に、200 年に満たない間に 古代ギリシャ神殿が恐らく 3 つ建てられているが、その区画というのは即ち、アテ−ナ女神の礼拝のために奉献された 3 つ目の神殿である あの堂々としていて壮大なパルテノン神殿(第三のパルテノン神殿)が B.C.5 世紀の半ば頃から今日に到るまで 高々とそして威厳に満ちて立っているのと同じ 正にその場所なのである。彫り込みとか 文学的な拠り所とか 考古学的な直接、間接の証拠物とかがあって、これより古いパルテノン神殿が 2 つ(第一と第二のパルテノン神殿) ここにあったことが示されている。
☆ 第一番目のパルテノン神殿
○ この第一番目のパルテノン神殿は ア−ケイック期に作られたドリア式の神殿で、恐らく B.C. 6 世紀の第 1 四半期に造営されたものであるらしい。造営に用いられた建築材料も 破風の彫刻部材に用いられたものも どちらもポロス石の多孔性石灰石であり、その土台石の面積は 32.71 x 16.24 m.の大きさであったに相違ない。
○ この第一番目のパルテノン神殿は アテネに僭主政治が行われた年代に 建てられ始め、丸々 100 年の間 ずっと残って立っていたものらしく、後年になって 第二番目のパルテノン神殿と取り替えたのは、ペイシストラトスが B.C. 510 年頃になってからのことであったのか、又はアリステイデスが その数年後の B.C. 490 年に マラトンの戦闘があった後のことであったのかは、明らかでない。
○ 後年になって デインスモア W. B. Dinsmmor がこの神殿について 徹底的な調査を行った。この神殿は前面と背面とに 夫々ドリア式円柱が 3 本立っている 両向拝式の神殿で、東西の両正面には メト−ペが 8 つとトリグリュフが 9 つ、両側面沿いには メト−ペが 18 とトリグリュフが 19 づつ付いた ドリア式のフリ−ズがあり、その破風の装飾となっていたのは 多色に着色された 多孔性石灰石で出来た彫刻品であったと 彼は述べている。西破風の中央にあったのは 小さい牡牛を貪り喰う雌の獅子の付いた群像で、この群像の一部(アクロポリス美術館 第 1 室 収蔵品 No. 4)が 今でも残存している。東正面の作品を作ったのは 重要な彫刻家たちであって、中央に 二頭の獅子が牡牛を殺している作品(同 第 3 室 No.3)があり、破風の三角小間の左側には ヘラクレスとトリトンとの間で争われた闘争が描かれており、トリトンの魚形の尾が 隅の角にぴったりと合っていた。右側には 奇妙な怪物が描かれていて、人間の胴体を 3 つ持ち 胴体の下では混合して絡まり合った 3 本の竜の尾になってしまっているという 悪魔(同 第 2 室 No.35)であったと述べている。
☆ 第二番目のパルテノン神殿
○ この第二番目のパルテノン神殿は <古い方のパルテノン神殿>であって、ドリア式のスタイルを採って 大理石で造営され、前にあったパルテノン神殿より ずっと大きい寸法のものであった。この神殿は とうとう完成するに到らなかった。神殿の造営が始められたのは 丁度 B.C. 480 年にペルシャ軍が侵入して来た時であった。この神殿はその時既に <クレピドマ>(基段)と呼ばれる段が 3 つ付いた土台は出来上がっていたし、円柱の方も どれもこれも太鼓石が 下の 3 つだけ出来上がっていたが、ペルシャ軍の手にかかって 火をつけられて 毀わされ、アクロポリスのこの聖なる岩山上にある他の記念建造物すべてと その運命を共にした。
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