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アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
 
 
 

○ この神殿は 東側にはポルテイコ(柱廊玄関)になった<プロナオス pronaos(訳注 399−前房)>があって <ケラ(内陣)>と繋がっており、西側の<オピストドモス(後房)>は ギリシャ神殿の背面にある 奥まった部屋で、時としては ブロンズの格子で周りを囲まれて 神庫として用いられた室であるが、このケラとオピストドモスの間に 更にもう一つ大きい室が付いていた。この神殿は 東西両正面には 円柱が夫々 6 本、両側面沿いには 夫々 16 本立っている ヘクサスタイル(六柱式)の繞柱式神殿になる筈であった。内面にある建物の方は 両端面に 4 本の円柱の立った柱廊を持つ <テトラスタイル(四柱式)・プロステユレ prostyle(訳注 400−前柱廊式)>の形を採っていて、言い換えれば 両端面に円柱の立っている <アムピプロステユロス(両面前柱式)・ナオス(内陣)>でもあった。オピストドモスの室の内部にも 丈高の円柱が 4 本立っていて 屋根を支えており、この後房の室を通って 西側の大きい室に通ずる入り口が付いていた。ケラには 円柱が二層になって重なっている室内の柱列が  2 列になって立っていて、手前から奥に向かって ケラを 3 つのアイル(側廊)に仕切っていた。

○ この第二番目のパルテノン神殿は 嘗てはウルパルテノン神殿 Urparthenon(訳注 401)と呼ばれ、又デインスモアは <パルテノン神殿の父>と名付けている。多分第一番目のパルテノン神殿を ペイシストラトスが毀わして、オリムピアにあるゼウス神の神殿のような 双廊のあるポロス石作りのイオニア式大神殿を造営しようとした時に、テラスの南側が 拡張補強され、その後 マラトン戦役後の B.C. 488 年頃になって このテラスの上に イミトス山産の大理石の土台石が据え付けられ、神殿の造営が始められたものと思われる。ポロス石で出来た この神殿のクレピドマ(基段)の遺構は、第三番目のパルテノン神殿の土台石として使用されていて、神殿の南東隅で 今でもはっきりと見ることが出来る。完成されることのなかった太鼓石は、火事の痕跡を残したまま アクロポリスの丘の北側のテミストクレスの壁面の 外側に閉じ込められていて、これ又 今でも見ることが出来る。

☆ 第三番目のパルテノン神殿

○ 第二番目のパルテノン神殿がペルシャ軍の手にかかって炎上した年の翌年の B.C.479 年には、プラタエアの戦場で ギリシャ連合軍がペルシャ軍を打ち破っており、その時にアテネの人々は ペルシャの侵入を忘れることのないよう、アテネに帰還しても 神殿の再建は行わないと誓った。併し その時から 30 年も経過して ペルシャとの間には 和平条約も結ばれたし、アテネも ペルクレスをリ−ダ−とする新しい年代に移っていて、その再建を求める気運が漲って来ていた。B.C.447 年に始められた この第三番目のパルテノン神殿の造営工事は 完工に 10 年近い年月を要して、第 85 回オリムピア−ドに当たる B.C. 438 年に パンアテナイア祭の祝典が行われた時に奉献され、金と象牙とで出来た処女神アテ−ナ女神のパルテノス Parthenos と呼ばれる大きい礼拝像を フイデイアスが作って この神殿に安置した。細部の作業は未だ未完成で、破風の大彫刻とメト−ペの浮き彫りの彫刻が完成したのは、更にその 6 年後の B.C. 432 年のことで、丁度ペロポネソス戦争の始まる前年のことであった。

○ この新しい第三番目のパルテノン神殿は アテネを美しく飾り立てて 今までとは違った形に変えようとした ペルクレスの広大な目論見の 中核となる建造物であって、その設計には 建築家のイクテイノスが当たり、カリクラテスがその建築の責に当たった。併し このプロジェクトの総監督の責任を ペルクレスが委ねたのは、自分の友人であり 協同作業者であり 美術上の問題についてのアドヴァイザ−でもあった フイデイアスであった。パルテノン神殿が、このアクロポリスの丘の上で 眩(まばゆ)く輝く聖なる建造物の中でも最大であり 且つ最も尊敬されたものであって 特に抜き出て目立っているのは、そのフオ−ムが尊厳であり その稜線が調和の採れたものであり、その建築としてのデザインが完全で 異彩を放った彫刻物の付いた その装飾が壮麗であることに因るものである。この岩山の最頂点の所に 堂々と聳え立っており、その嵩が途徹もなく大きいので、アテネ周辺の平原や周りの丘のどの地点からも良く見え、この地域全体の著しい特色を頂きに載せた 本体そのものなのであった。

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