○ 完工までに 10 年に近い年月を要したとは言え これは驚くべき速さであって、当時漲っていた創造的な気風とアテネの芸術の力量とを如実に示しているものであり、アテネの人々は総べてこの建設に協力したのであった。デロス同盟の宝庫が デロス島からアテネに移されていて、アテネの管理下に置かれていたことも幸いした。外部からの資金をアテネに流入させたいという政策的目的が、ペルクレスの考えの中にあったことは 疑う余地がない。同時に当時では信仰そのものが国事であり、この神殿の造営こそが 都市国家アテネの仕事なのであった。勿論 保守派の人々からの反対がなかった訳ではないけれども、B.C.443 年に ペルクレスは危険を冒して 保守派の領袖のツキュデイデスを 大衆の面前でオストラキスモス ostrakismos(訳注 402−陶片追放)にかけてしまった。その後でも 幾らかの反対はあったけれども、兎も角アテネの人々はこの造営を愛し、そしてそれを誇りとしたのであった。
○ 昔のギリシャの神殿は今日の教会とは基本的に異なっていて、祭事はすべて東正面の外側で行われた。神殿は単に神の住居であり 礼拝像を安置する場所であって、信者が中に入るのは稀なことであった。従って内部の作りは簡素で、装飾は殆ど総て外面に施されていた。唯 4 年毎に催されたパンアテナイア祭の祭典の賞品の授与だけが 神殿の内部で行われた。もとのパルテノン神殿はイオニア式であったが、新しいこの神殿ではドリア式が選択された。このような宗教的な建造物にはドリア式の持つ真面目さが適わしいと見られたのである。材料石は総べてペンテリコス山産の大理石が使用された。
○ 神殿の外観
1) 神殿のステレオベイト stereobate(訳注 403)
○ 神殿の土台はそっくりそのまま すっかり見えていて、北と東の両面だけは クレピドマが堅い岩面に接着しており、他の南と西の両面は ポロス石で出来た第二番目の神殿の 高さが 10.1 m.もある丈高の土台石の上に据え付けられている。目に見えている 非常に高いこの土台は、ペンテリコス山産の大理石で出来たクレピドマの 大切な基礎部分となっているものであって、本質的にも 機能的にも 互いに結び付いており、この神殿がその構造としても 又美的に見ても 非常に高貴なものであることに、決定的に寄与しているのである。
○ クレピドマと呼ばれる この神殿の段の付いたステレオベイトは 3 層になっており、東西両面から見ると 階段のように下ほど突き出して 神殿の重量をしっかりと支えている。この層になった段は 一段の高さがどれも夫々 55 cm.もあって、人間の昇るための階段ではなかった。東西両面ともこの 3 つの大きい段の半分の高さの大理石の低い中間の段が付いていて、神殿へのアクセスはそれだけ便利になっていた。整地層として用いられている 土台の特別な最上層である<エウテユンテリア euthynteria>の部分から ステユロベイト(基台床)の所までの高さの総計は、 1.65 m.であった。
2) 神殿の形式
○ この神殿は そのケラ(内陣)をペリステユレ(列柱廊)が取り囲んでいる形の 繞柱式タイプのドリア式神殿で、ペンテリコス山産の大理石で出来ており、東西両短面には夫々 8 本、長い方の南北両側面沿いには夫々 17 本 合計 46 本の円柱が神殿を取り巻いて立っていた。この当時ドリア式神殿の通常のレイシオは 6 x 13 本の円柱ということに決まっていて、この 8 x 17 というオクタステユレ octastyle(訳注 404)の型式は 神殿造営の仕来たりから見れば珍しい例外となるもので、ギリシャ本土では他に見られないものである。正面の幅を広くすることで、中に安置されている巨大な女神像との釣り合いを良くし、併せて建物全体を安定させようとしたものと思われる。
○ ステユロベイトの所で測った神殿全体の面積は、間口 30.88 m.奥行き 69.50 m.で その広さは 2145 平方 m.であり、この<ステユロベイト>から<エンタブレイチュア(長押)>に及ぶまでの体積は 22,500 立方 m.もある大きなものであった。第二番目のパルテノン神殿では 同じステユロベイトの所での面積は 1823 平方 m. であり、<エカトムペドン>と呼ばれる第一番目のパルテノン神殿では クレピドマの台石の所での面積は たった 531 平方 m.であったに過ぎなかった。
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