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アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
 
 
 

○ A D 2 世紀の半ばに 未だ元の位置に立っていた彫像を見たパウサニアスは、次のように 特色のある描写をしている。<彫像そのものが 象牙と金とで出来ている。そのヘルメットの中央には スフインクスの姿があり、ヘルメットの両側には どちらにも グリフイン Griffin(訳注 435)が浮き彫りで付けられている。アテ−ナ女神の彫像は 足にまで届くテユニック tunic(訳注 436)を着て 直立し、女神の胸には メドウサ Medusa(訳注 437)の頭が 象牙で細工されている。女神は 凡そ 4 キュ−ビット尺 cubit(訳注 438)の勝利の女神の像を持ち、もう一方の手には 槍を持っている。足元には 盾が横たわり、槍の近くには大蛇がいる。この大蛇は エリクトニウスであろう。台座には パンドラの生誕を描いた浮き彫りが付いている。>

5) <ザ・パルテノンの室>と呼ばれる 西側の室

○ 間口が 19.19 m. で 奥行きが 13.37 m. の大きさの ペルテノン神殿の割りに大きい第三の室のあった位置は ケラの西で、横に走った間仕切り壁で ケラと仕切られていた。この間仕切り壁は 今はなくなってしまっているが、現在残っている横壁の部分には 嘗てこの間仕切り壁と繋がっていた 痕跡が残っているのが、見出される。この室は <ザ・パルテノンの室>と呼ばれていて、時が経つに内に 嘗ては<ネオス neos>   と名付けられていた この神殿全体の名となって、パルテノン神殿と呼ばれるようになった。この室の中央では 四角い台石か 厚板の上にイオニア式の円柱が 4 本立っていて、屋根を支えていた。この台石 4 つは 今日未だ その元の位置にある。

○ 礼拝堂では絶対にあり得ないが、パルテネス Parthenes(訳注 439)と呼ばれた処女女神の <オイコス>(住居)としても知られているこの室には ケラに通じる入口は付いてない。パンアテナイア祭の乙女たちが外衣を織った部屋か 或いはその住居であったのかも知れない。何に使用されたのか 実は誰にも良くは判っていないのではあるが、どうも恐らく宝物庫であったらしく 調度品や器や武器といった 大切な物が保管されていたらしい。金と象牙とで出来た アテ−ナ女神の彫像に関する記録とか、その制作に要した 高価な素材の在庫目録を記した ブロンズの銘鈑とかの公文書類も、B.C.438 年以後のアテネ同盟の基金とか、アテネの市自体の基金とかも、更には アッテイカ地方の 10 の種族から奉献された 純金の勝利の女神像 10 体とか、ギガ−ス族に対する アテ−ナ女神の勝利を記念して 毎年持って来られた金の王冠なども、此処にあった。プラタエアの戦闘の戦利品も 此処にあったし、サラミスの海戦に当たって ペルシャのクセルクセス王が自軍の敗戦を目前に見た時、腰掛けていたとされる銀脚の付いた王座も 此処にあったのは、特に興味深いことであった。

○ デメトリオス・ポリオルケテス Demetrios Poliorketes(訳注 440)は この神聖にして侵すべからざる区画を オ−ジ−の祭 Orgy(訳注 441)の場にかえて、自分の宿所として使用したと 古い資料が伝えている。ずっと後年になって この神殿が形を変えて キリスト教の教会となった時に、この部屋は ナルテックス narthex(訳注 442)として使用された。壁面には その頃に描かれたフレスコ画の痕跡が 今でも一部見分けられる。隣りのケラとの間仕切りになっている横壁に 初めて扉が 3 つ開かれたのも この時のことであった。又この室の南西の隅の所に モスク mosque(訳注 443)の下の部分、つまり このパルテノン神殿が変形して トルコの社になったという名残が、今でも見られている。

6)  オピストドモス(後房)

○ この神殿の西正面に面してあったのは この神殿の第 4 の区画に当たる オピストドモスであって、その型も 形も サイズも プロナオス(前房)と正しく似たものであった。東側の<ザ・パルテノンの室>との間の 間仕切り壁の中央には 入口があって、これがこの室に通じる 唯一つの入口であった。このオピストドモスの部屋にも 大切な品物とか 女神の財宝とかが保管されていて、この区画にも亦 格子の付いた柵が巡らされていた。

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