ttl120
 
navi
 
sitemap
図版ページ
 
アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
 
 
 

○ ガイア・カルポフオラス女神の社 ( page 37 図 01 - No.47)

○ この女神は、<果実を齎らす大地女神>であるとされている。パルテノン神殿のコロネ−ドの 北西のコ−ナ−から数えて 7 番目の円柱から北の方に 僅か 9 m.だけ距った所に、<予言の示す所による ガイア・カルポフオラス女神>の社があるのが見出されるが、それは この場所にある岩石の上に刻まれた 彫り込みに示されている通りである。この社と彫像には どちらも屋根が付いていなかった。この<大地に幾らかでも雨を降らせて呉れるよう 雨を齎らす神であるゼウス神に懇願している ガイア女神の彫像>を パウサニアスが見たのは 間違いないことである。

○ アテ−ナ女神の祭壇 ( page 37 図 01 - No.48)

○ アテ−ナ女神の素朴なこの祭壇は エレクテウスと共同で礼拝されていて、そのあった場所は エレクテウム神殿の東の方の <ア−ケイオス・ネオス神殿>の入り口から 15 m.距った所であった。

○ 岩石の上に鑿で刻んだ跡が残っていて、祭壇のあったのがこの位置であることが判っている。この祭壇は アクロポリスの丘にあった アテ−ナ女神の祭壇の主となるものであり 最大のものでもあった。この<ア−ケイオス・ネオスの神殿>のあった区画に 幾世紀もの間に亘って 次々に建てられた神殿のすべてに使用されたのであり、アテ−ナ女神が様々なものと同一視されているにも拘わらず 基本的には常に同じものであり続けたことから、<エカトムペドンの神殿>でも 後年にはエレクテウム神殿でも この祭壇が用いられたのであった。この祭壇では パンアテナイア祭の間に 100 頭の牡牛のエカトムが 総べて犠牲に供せられた。

○ アテ−ナ女神の太古の神殿

○ ペイシストラトス一族の年代であった B.C.6 世紀に出来た もっと古い神殿の土台石は、エレクテウム神殿の南方に当たり この神殿に隣接した場所にあった。この古い神殿は アテ−ナ女神に奉献されたものであって、有名なアテ−ナ・ポリアス神の神殿であり、太古の神殿の意の <ア−ケイオス・ネオス神殿>であった。この神殿のあった位置は又 ミュケナイ期に王宮のあった区画と同じ敷地上であったが、この王宮のもので今日まで現存しているものは 実質上は何一つとしてない。

○ この神殿が建てられていた区画というのは、僭主政治の年代を通して 連続して建てられた 3 つの神殿の敷地として役立てられて来たものであり、王宮を作るために ミュケナイ期には既に地均しがされていたので、建物を建てるのに一番適切な場所であり、事実又 王宮自体がアテ−ナ女神とか 他の神々とか英雄どもとかの礼拝と 密接な関係があったらしいことから見ても、一番大切な場所でもあった。

○ これらの 3 つの神殿の内 最初に建てられたのは、<p99-132> つまりうまく構築されたエレクテウスの住居であって、ジオメトリック期の年代に建てられたものらしい。この神殿のものは事実上は 何一つとして今日まで残っているものがないが、鉄製の低い格子で周りを囲まれた 石で出来た土台石 2 つが 今も元の場所にあり、獣に囲まれたゴルゴンの像を描いている ブロンズの板で作られた<アクロテリオン>と共に、例外的に今日まで残って来ている。この神殿のものであると考えられる遺物は これらのものだけに過ぎないが、一方では一時 石で出来たこの土台石は ミュケナイ期の王宮のものであると 信じられたこともあった。今ではこの神殿が実在したものであることは、間違いがないと信じられている。併し このジオメトリック期の神殿の後で建てられた 2 つの神殿については、B.C.6 世紀になって同じ敷地上に作られた 別々の 2 つの神殿であったのか、それとも同じ B.C. 6 世紀の 一方は B.C. 570 年かその辺りに、他方は B.C. 525 年にという 2 つの段階に建てられた 一つの神殿であったのかについて、議論の余地が残っている所である。

( 099 )

 
    next
space各ページへのダイレクト・リンク