図版 026 及びⅠとⅡ アテネのアクロポリスの上にあった アテ-ナ女神の 旧(ふる)い神殿の破風の彫刻群 | next-図版 027 |
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○ ポロス石(多孔性石灰石)で出来ており、アクロポリスの丘の上で 1888 年に出土した。左側はトリトンと格闘しているヘラクレスの像の破風で、その長さは 3.535 m. ( 11 ft. 7 inch )である。右側の破風には 身体が 3 つある怪物の像があって、その長さは 3.40 m.( 11 ft. 4 inch )であり、先頭にいる 顎髯の生えた人物像の高さは 70.5 cm.( 2 ft. 4.15 inch )である。アテネのアクロポリス美術館に収蔵されている。
○ B.C.6 世紀の造型美術には、神話の物語りや 神話上の人物をでっち上げるに当たって はっきりした好みがあったことを 示唆している。この奇妙な生き物は、素晴らしく生き生きした表情を見せて こちらを見ており、尽きることのない想像力が この時代の特徴を示すものであったことを 立証している。人間の頭と胴体を持ち 大きい翼が両肘の上で支えられて付いた像が 3 つあり、腰から下では絡み合って一体となって 螺旋状に捩(ね)じれた蛇のような尾になっている。一番離れて右にいる人物は その手に小鳥(空気)を持っており、中央にいる人物像は 水の流れを、左側にいる人物像は 火の束を持っている。これらの持ち物は、この 3 つの頭を持った怪物が その持ち物が象徴する 3 つの要素のどれにでも 直ぐに変身する能力を持っていると言うことを、恐らく示しているのであろうと見られている。
○ この怪物の 3 つの逞しい身体は 限りない精力を示しており、有髯の顔に見られる陽気な生命力は この精力のクライマックスに相応しいものである。彫りは鋭くて 辛辣であり、技法としては 木彫りに近い。この 3 つの頭の付いた怪物は、破風の右側コ-ナ-を一ぱいに占めており、破風の左側には これと対応するグル-プ像があって トリトンと格闘するヘラクレスが描かれている。このトリトンというのは 初期のギリシャ神話に出て来る怪物で、人間の形の胸郭が魚形の尾から現われ出ているのである。この像は正に B.C. 570 年頃に作られたものであることを この彫像のスタイルが示している。嘗てあった彩色がこれ程良く残っているのは稀なことで、素晴らしいことでもある。頭髪用に使われた濃い青色は、所々で濃い緑色に変色してしまっており、蛇になった下半身は濃い赤で、人間の皮膚の色合いは 黄色から赤っぽい色調に変色している。顔を観客の方に向かって回していて、その赤色の両眼は 黒色で縁取りが施されており、顔の肌色は 恐らく黄色であったと思われる。頭髪と顎髯とは濃い青色で、これが この男に<青髯の男>というニックネ-ムの付けられた理由となっている。
○ 破風の中央部は 今では亡くなってしまっているが、そこに何があったのかということについて、異なった意見が 2 つある。怯(おび)えた海の精 ネレイス Nereis(訳注 1)が 2 体そこにあって、3 つの胴体を持った怪物に向かって走り、トリトンが敗北していることを告げていたとする説が その一つであって、この場合には 頭が 3 つ付いたこの怪物は ネレイスたちの父親で、海中に棲み 自らの姿を変える力を持った ネレウス Nereus(訳注 2)であるということになる。若しそうであるとすれば、この破風全体は 全長凡そ 9.40 m.( 31 ft. 4 inch)なければならないこととなり、この破風は ひょっとすると エレクテウム神殿 Erechtheum(訳注 3)とパルテノン神殿との中間の位置に建っていたとされる エカトムペドン神殿 Hecatompedon(訳注 4)と呼ばれる アテ-ナ女神の初期の神殿の破風であったのかも知れないと考えられた。もう一つの説は シュックハルト W. H. Schuchhardt の唱えたもので、この破風に付いているア-キトレイブ(長押)の あり得そうな高さの算定が異なっていることを その論拠としている。この破風の中央には 獅子が 2 頭いて、その襲った牡馬を貪り喰っているという構成の 動物の大きいグル-プ像(アクロポリス美術館第 3 室 収蔵品 No. 3)があったと彼は考えたのである。そんなグル-プ像の遺物が 出土している。この場合には この中央のグル-プ像と 3 つ頭の付いた怪物の像との間には、小さい人物像が一つやっと入るだけしか スペ-スは無かったであろうと見られるし、左右の両破風のグル-プ像の間には、物語りの繋がりは 何一つ無かったこととなる。更にこの破風全体の寸法も 長さが 16.16 m.( 55 ft. 2.5 inch )で、高さは 1.70 m.( 5 ft. 8 inch )と ずっと大きいものであったこととなる。このことから考えれば、この神殿は 回廊が周りを取り巻いている神殿であり、アクロポリスの丘の上に建てられたこのタイプの建造物としては 最初のものであったと見られる。