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 P50(-p64)
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(本文訳注 108) エスキュラス Aeschylus
B.C.525/524 - 456 年。アテネの三大悲劇詩人中最古の人で、エレウシスの神官の一族の出である。ペルシャ戦争では マラトン及びサラミスに戦った。B.C.468 年頃シラクサの僭主ヒエロン一世に招かれ 後帰国したが、再度シシリ-島に赴き ゲラ Gela で死んだ。従来 1 人であった俳優を 2 人に増して対話をさせるなど 悲劇の形式を改良し、内容も思想的芸術的に高めて 真の意味の悲劇を創造した。作品は宗教性に充ち、登場人物 は超人的英雄である。ゼウス神を全知全能の善なる神と信じ、神話伝説を解釈し直した。伝存作品 7 編中 <ペルシャ人>や<オレステイア Oresteia>三部作が有名である。

(本文訳注 109) ポリュクリタス Polyclitus
B.C.5 世紀後半に活躍した ギリシャの彫刻家の巨匠で、アルゴスに生まれ、主にこの地で制作して 同時代のフイデイアスとその流派に対する アルゴス・シキュオン派の代表とされた。共にクラシカル期の彫刻の完成者で、ブロンズ彫刻が得意であった。人体の理想的な形を探求し、頭部を身長の 1/7 とする人体美の標準としての<カノン canon(規準)>を定めた。代表作<槍を担ぐ人>は、その筋肉が正確 堅実であり、充実した均衡の採れた人体は 肉体の完成美を示している。彼の作った原作で 現存するものはない。人体各部分の比例を説いた<カノン>という美術理論書も著した。

(本文訳注 110) スニウム Sunium
ポセイドン神の神殿のあった 峻しいスニオン岬 Sounion の砦から 500 m.許り離れた 岬の地峡の小さい丘の頂上に 東西にスニオンの 2 つの湾を見下ろして立っていた アテ-ナ・スニアス女神 Athena Sounias の神殿のあった聖域で、石の大きい塊で出来た非常に古い多角形の壁で囲まれた 凡そ 475 平方 m.の区域である。考古学者スタイス Valerios Stais の行った発掘作業で ア-ケイック期の 鉛の小さい若者像や少女の頭部像と共に 頭に王冠を付けた若者の献納の浮き彫り碑の破片が この土地の殆ど地表に近い所で 出土している。

(本文訳注 111) ニシュロス島 Nisyros
巨人族 Giants と神々との戦いのギガントマキア Gigantomachia で 逐われてコス島 Cos に遁がれた巨人族の一人ポリュボテス Polybotes の上に ポセイドン神がこの島を投げて 下敷きにして殺したとされる。トロイ戦争では この島の軍勢がフエイデイッポス Pheidippos に率いられて 参戦した。

(本文訳注 112) ミレタス Miletus  ( page 27 図 01 参照 )
小アジアのエ-ゲ海沿岸にあるイオニア地方に栄えた 古代ギリシャの都市国家で、ミュケナイが植民し イオニア人が移住した。B.C.8 世紀から海外貿易が盛んで、7 世紀には東地中海、黒海沿岸に約 70 の植民市を建て、その富強も 人口もギリシャ世界第一で、僭主トラシュブロス Thrasybulos の下 全盛を誇った。B.C.7 世紀末の繁栄期には 哲学・地理・歴史など文化の中心となり、殊にタレス Thales などのイオニア哲学のミレタス学派が名高い。後リュデイア・ペルシャと戦い デロス同盟にも加わって 反ペルシャの指導勢力となったが、B.C.494 年ペルシャ軍に破壊されて 衰微した。ヘレニズム期・ロ-マ期に大規模に再興されたが、現在はマイアンデル河畔の寒村である。1889 - 1912 年と 1955 年以降何れもドイツ考古学会の発掘が行われている。

(本文訳注 113) タソス島 Thasos ( page 27 図 01 参照 )
エ-ゲ海北部のトラキア地方の前面にあるギリシャの島で、面積は約 435 平方 km.、人口凡そ 14 千人である。B.C.680 年頃にパロス島から植民された。エ-ゲ海域第一の金山があり、対岸のトラキア金山も所有して 財政豊かなポリスであった。ペルシャ戦争の後 デロス同盟に加盟したが、後アテネの攻囲を受けて B.C.463 年に降伏した。B.C.4 世紀にはアテナイ第 2 海上同盟に属し、同 340 年にはマケドニアの支配下に置かれた。

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