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 ところが 制作時期としては このアリステイオンの墓碑からたった 30 年か 40 年しか隔たっていないもので、スニウム Sunium(訳注 110)で出土した勝利者の碑(図版 96)を見ていると、そこでは人物像と背景面との間の相互関係が 既にもう違ったものになっており、ニシュロス島 Nisyros(訳注 111)の墓碑(図版 133)では そのことが更にもっとはっきりとして見られているのである。人物像がもともと持っている動き易さと旨く適合した 相互の間の新しい有機的な関連に、浮き彫りのこの構成要件が加わっているのである。ア-ケイック期の浮き彫りを構成するものの中では 人物像と背景面とがどちらも 若し略々同じ位の価値を持つ力であったとするならば、B.C.5 世紀初期の浮き彫りでは 人物像の獲ち得た重要性は 背景面と比較してずっと大きくなっているのである。人物像が背景面を動かして 左右し始めており、自らの芸術的な存在分野の中に 背景面を引き込むようになって来ている。オリムピアにあるゼウス神の神殿のメト-ペでは その浮き彫り(図版 107 から 109 まで)は、幾つもの人物像相互間にある お互いに影響し合う力が 新しい関係となって表現されていて、これが強く見られる場になっている。その人物像の身振りであるとか その顔付きであるとか じっと見詰めたその視線とかには、奥深く内面に潜められた生気が曝け出されて見えている。これらの人物像は 共に同類であるという運命的な感覚で結び付いているが、この感覚は B.C.6 世紀の作品では馴染めることの全くないものである。パルテノン神殿のメト-ペの浮き彫り(図版 142 から 147 まで)や フリ-ズ(帯状装飾)の浮き彫り(図版 148 から 171 まで)では、幾つもの人物像の相互の間の繋がりとか その背景面に対する関連とかが 一層密接なものとなり、一段と強固なものにすらなって来ている。浮き彫りを構成している一つ一つの因子が お互いに限度に到るまでもっとより深く滲み込み、未だその上に もっと仲良く融合してしまっている。パルテノン神殿の浮き彫りの中では、背景面は その物質的な特性を非常に大きく喪失してしまっていて、その描写の中での 一つの要素に過ぎないものとなってしまっているように見えるのである。

 芸術を産出しているこの沢山の地域は、シビア・スタイル期と呼ばれたこの期間をずっと通して 自らの顔付きを保ち続けていたのであって、ミレタス Miletus(訳注 112)のように 軍事上の事件が起こって その孤立状態をもぎ取られるようなことがあったり、タソス島 Thasos(訳注 113)やエギナ島のように B.C.5 世紀半ばになって その政治的な独立を喪失するようなことになったりしない限りは、事情によってはその期間の過ぎた後まで 持ち続けていたことすらあった。B.C.490 年頃になると エギナ島にあったアフアイア女神の神殿の東破風の古い方の彫像が、ロ-カルな彫刻家の作った新しい人物像と取り替えられている。西破風のより古い像(図版 72 から 77 まで)と やや後で作られた東破風の像(頭は 82 から 87 まで)との間に スタイルの上での相違が見られるということは、今までも度々注意が引かれて来たところであって、B.C.6 世紀の後期から B.C. 5 世紀の初期にかけての彫刻に 進展があったということを示す前触れなのである。もともと 古い方の破風のこれらの人物像と より後期の人物像とは、インチで測るような外面上の寸法を用いて 区分して見分けるものではない。両方の破風のコ-ナ-のところで斃れている兵士同士を比較して見ても、己の胸から矢を引き抜いている古い方の人物像(図版 74 と 75)の方は よりぎこちない動作をしていることが判るし、彫りの盛り上げがより浅目で 身体の各器官の間の結び付きもより少ないことが判る。やや後期に作られた東破風の上にある有髯の兵士の像(図版 84 と 85)の方は これとは対照的に、その気力のない手から 丸い盾が下方に下がっており 空間の方にずっと突き出ていて、その身体は一段と丸味を帯び 身体の各器官はより有機的に密着している。全体として言うならば、この人物像は B.C.5 世紀に特有なものであった 実物大より大きい彫刻の中で、新しい展望を示しているものであると言えよう。より後期のこの東破風を 西破風と比較すると、その構図の中にも 同じような進歩があったということを認めることが出来る。西破風の右半分と左半分との構成は、相互に繋がりを持っているということではなくて、正面を向いた形を未だに採ったままで作像されているアテ-ナ女神の像が、高く聳え立っていることによって 相互に左右に距(へだ)てられてしまっているのであるが、それに対して 東破風では、中央で大股で歩いている女神の像が 兵士たちの全員を一緒に引き込んでいて 破風全体を結束した統一体にしてしまっている。斃れた人物の採っている 大の字になった姿勢であるとか、後方に手足を一ぱいに伸ばして よろめいているもう一人の人物の姿勢であるとか、しっかりと掴まえている 第三のペアの動作であるとか、2 人の射手が中央に向かって 向かい合っているやり方であるとか、両隅にいる瀕死の男たちの態度であるとかいった これらの兵士たちを扱うに当たって採られたこうした新奇なやり方が、この東破風で構図を一体として統一するのに 一段と役立っているのである。西破風では、人物像が列になって 並んでいただけであったが、東破風では、連なった鎖となり、構成分子の各部分がその鎖で しっかりと繋がっているのである。

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