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 シビア・スタイル期のアッテイカ地方の彫刻を代表すると考えられる作品としては、<クリテイオス Critius(訳注 114)の作った若者像>(図版 89 から 91 まで)の他にも、ほんの少しだけそれより後年になって作られた スニウムで出土した美しい勝利者の碑(図版 96)とか、アテネのアクロポリスの丘の上で出土したもので 杭の前で己れの持つ槍に凭り掛かっているこの砦の女神を描いた 初々(ういうい)しい像の彫られている 非常に美しい小さな奉献の浮き彫り(図版 139)とかを、本書の中に収録することが出来る。アッテイカ地方に見られるこの霊化された形態は、イオニア地方の島の彫刻家の持っている 一段と感覚的なスタイルと 良い対照を示しているものであって、表情豊かな頭部像が横顔になって彫られている メロス島出土の円形の浮き彫り(図版 138)とか、ニシュロス島の墓碑(図版 133)とか、ギュステイアニ Giustianiのコレクションに属していて 今はベルリン美術館に所蔵されている墓碑(図版 140 と 141)とかが、その好例として挙げられよう。ゼウス神がそのお気に入りのガニュメデ Ganymede(訳注 115)を誘拐している テラコッタで出来た色彩の豊かなグル-プ像(図版 105 及びⅤ)とか、オリムピアで出土した四頭立て二輪戦車を曳いていた ブロンズ製の素晴らしい馬の像(図版 106)とかは、ペロポネソス半島北東部の彫刻の独特なやり方 つまり重厚で引き締まった身体の各器官を使って彫刻を作り上げるやり方を明らかに示している。このシビア・スタイル期というのは、南イタリ-にあるギリシャ人の植民都市や シシリ-島の僭主たちの大邸宅が享有していた 権力のポジションと関連を持っている黄金の年代であるが、この期間をずっと通して 南イタリ-とシシリ-島のギリシャ人の植民都市では、造型美術が凄まじい刺激を受けて来たに違いないのである。シシリ-島の王子たちが全ギリシャのコンテストで 勝利を収めたことを祝賀した詩人は、紛れもなくピンダ-ルその人であった。タラント Taranto(訳注 116)で出土した 王座に即いた女神の像(図版 97 から 101 まで)とか、マグナ・グレキアにあったドリス人の植民都市で出土した B.C.5 世紀初期の作品である ピオムビノの町のアポロ神の像(図版 92 から 95 まで)とかについては、既に触れた所である。B.C.5 世紀の第 2 四半期には デルフイの馭者の像(図版 102 から 104 まで及びⅣ)であるとか、セリナス Selinus(訳注 117)にあるヘラ女神の神殿のメト-ペの浮き彫り(図版 126 から 129 まで)であるとか、ロ-マのテルメ美術館 Terme の所蔵の<ルドヴィシの王座 Ludovisi(訳注 118)と呼ばれる艶(あで)やかな浮き彫り(図版 134 から 137 まで)といったものが、同じシシリ-島や南イタリ-の地域で 直ぐその後に続いて作られているのである。

 この期間における いやそれどころか シビア・スタイル期全体のと言った方が良いのかも知れないが、その彫刻の創作品の中で最高のものは、オリムピアのゼウス神の神殿にあった彫刻品(図版 107 から 125 まで)である。B.C.456 年に これらの彫刻物が完成したのであるが、その同じ年に、自分の故郷の町のアテネを遠く離れた シシリ-島のゲラ Gela(訳注 119)の僭主の邸宅で、エスキュラスが死亡している。劇的な緊張感とエスキュラスの作った悲劇を支配する堂々たる気品とが、神殿の巨大な破風彫刻と ヘラクレスの 12 の難業を描いているメト-ペの彫刻とに漲(みなぎ)っている。この年代の偉大な画家たちの描いた絵が、一つの動作であるとか 一つの出来事とかをそのまま再現しているのではなくて、その直前とか 直後とかの場面を再現するという特徴を持っていたのと丁度同じように、ゼウス神の神殿のこの東破風の彫刻(図版 110 から 116 まで)の中でも、正に大きい不幸を齎らそうとする 嵐の起こる前の静寂の中で、ペロップス Pelops(訳注 120)とオイノマオス王 Oenomaus(訳注 121)との間で行われる 二輪戦車競走のための準備が進行しており、その間中対抗するこの 2 つのパ-テイは、お互いに向かい合っているのである。西破風の彫刻(図版 117 から 125 まで)の中では ペイリト-ス王 Peirithoos(訳注 122)の婚礼の式の場で ラピタエ族 Lapithae(訳注 123)とケンタウル Centaur(訳注 124)との間で起こった 身の毛の弥立(よだ)つような戦闘が、中央に聳え立ったアポロ神の彫像の両側で、今酣(たけな)わであり、アポロ神はこの野蛮な馬男どもを制圧すべき勝利を ラピテス族に授けている。どちらの破風彫刻でも その配列には大切な意味があり、両側に 2 つづつあるこの 1/2 が、中央から両隅に向かって 先端がだんだん細くなって流れてゆくという この壮大な構図を構成するのに貢献している。オリムピアのこの彫刻物のスタイルには ペロポネソス半島の構成要素とイオニア地方の構成要素とが どちらも含まれていて、デザインをした巨匠の手で この両者が融合されて、壮麗な一つの纏まりになっている。B.C.6 世紀の破風の彫刻物では 巨匠のこうした生まれやスタイルを はっきりと決めることが出来たのであるが、若し B.C. 5 世紀になって 以前と同じようにはっきりさせることが出来なくなったとするならば、その理由は ア-ケイック期の間に比べてこの B.C. 5 世紀には、彫刻家の間でも 彫刻学派の間でも ずっと大幅にアイデイアのやり取りがあったことに因るものである。更にこれに加えて この B.C. 5 世紀には それよりずっと以前の期間に較べて、一人一人の作者自身の独自なスタイルが 一段と目立って来ているのである。

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