p6/26 | ギリシャの彫刻が 時代毎に夫々に異なった特徴を持っていたということを、人々は何時もずっと気付いて来ていたのであって、偏愛をしてみたり 認めてしまったり 認めようとはしなかったり 黙殺してしまったりすることで、夫々の時代の彫刻に対する自分の意見を表明して来たのである。既に過去のものとなってしまった 一つの年代に作られた美術作品に対して、後の世代の人々がどういう態度を示したかを見ていると、彼等がその時代に自ら持ち込んで来たものが 何であり、己れに欠けているが故に 自らの存在を補足するものとして過去の中に探し求めているものが 何であるのかということを、はっきりと示しているのが看て取れるのは このこととの関連で大変興味深いことである。ア-ケイック期に作られた作品は、ヘレニステイック期とロ-マン期の間をずっと通して、どれも単に古物収集としての興味とか 歴史的なものとしての興味とかだけしか感じて貰えなかったのであって、その限りでは 一つ一つエポックにどういった評価を与えるのかということも、亦ギリシャ彫刻を伝承してゆく中では 一つの役割が果たされて来ているのである。ロ-マ時代に摸作が作られていて その摸作が今でも現存しているギリシャの彫刻品の中で その原作の作られた年代が一番古いものは、B.C.480 年頃に作られたものである。この摸作者どもの年代の期間を通じて それより古い時代に作られたギリシャの彫刻品は、どれもこれも 明らかに未だに不完全であり のびのびとはしておらず、余りにもしっかりと 昔の様式に未だに密着し過ぎていて、クラシカル期の多くの美術作品に対すると同じように 夢中になって取り憑かれてしまうようなものは無いと考えられていた。大プリニ- Pliny the elder(訳注 40)が A D 1 世紀にヘレニステイック期の芸術について一つの断定を下しているのであるが、ロ-マ帝国初期の時代が それより年代の古いヘレニステイック期の芸術に対して示している態度としては、彼の判断は その典型的なものである。彼の著書であるナチュラリス・ヒストリア Naturalis Historia <自然誌 - 34,52>の中で リュシッポス Lysippus(訳注 41)と その学派のことを論じているくだりに、< Cessavit deinde ars ac cursus olympiade CLⅥ revixit> 英語に直すと、<その後芸術は下火となり、再び新しい息吹きを呼び起こしたのは 第 156 回のオリムピア-ド Olympiad(訳注 42)の期間、つまり B.C.156 年から 152 年にかけてのことであった。>という意味の文章を付け加えている。従って B.C.4 世紀から 3 世紀への移り目の時から始まって B.C.2 世紀の半ばに到るまでの 150 年の間 - 別の言い方をすれば、本物のクラシシズム Classicism(訳注 43)の終わった所から クラシカル紛(まが)いのにせ物の摸倣が出現するまでの全期間を通じて、芸術は事実上存在しなかったのも同然であると プリニ-は見做したのであった。アテネの市場で出土した デモステネス Demosthenes(訳注 44)の彫像であるとか、ガリア人 Gaul(訳注 45)と戦って得た勝利を記念して ペルガモン人が献げた大きい奉献物とかいったような この期間に作られた多くの作品は、プリニ-は考慮に入れようとはしなかったけれども 尊重されてもおり、ロ-マ帝国治世のエポックを通じて 摸作さえもが作られていた。それでもプリニ-は、クラシカル紛(まが)いの摸作者どもが抱いていた その属する年代の見解に従って、その期間全部を ギリシャの彫刻史上から抹殺してしまったのである。 ( 06 ) |
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