p17/26 | ペルシャ戦争 Persian War(訳注 125)が終わって アテネの政治上の力がそのピ-クに達した時に、海外からやって来た芸術家たちを魅了したのは とりわけアテネであったし、アテネは 彼らがお互いに融和し合う焦点の場所となった。アテネ人のフイデイアス Phidias(訳注 126)の才能が 他のすべての彫刻家たちの中では ずば抜けて光っていた。この彫刻家が古代世界の中で 特別に名声を博したのは、木で作った芯の周囲を 金と象牙とを使って仕上げをした巨大な礼拝像を 2 つ作ったことに因るものであって、それは アテ-ナ・パルテノス本尊 Athena Parthenos の像(訳注 127)と、オリムピアにあったゼウス神の像の 2 つの像であった。この 2 つの像はどちらも 古代後期に亡くなってしまっており、今では描写したものや摸刻品から その像のアイデイアを形作ることが出来るに過ぎない。ヘルメス神 Hermes(訳注 128)とか アポロ神とか アテ-ナ女神とかのブロンズ製の彫像といった フイデイアスの作った神々の他の像であるとか、傷付いたアマゾン族 Amazon(訳注 129)の像も同様に、ロ-マ年代に大理石で作られたコピ-像という形を採って 今日まで残っている。これらの彫像以外にも、パルテノン神殿の彫刻物の中に フイデイアスが B.C. 5 世紀に作った原作品が見付かっているが、こうやって残存して来た例は極めて稀で、全く幸運なケ-スであったことに因るものである。このパルテノン神殿のメト-ペの彫像とか フリ-ズの浮き彫り(図版 142 から 163 まで)の中で 又その両破風の彫刻群の中で、フイデイアスは自らの個人としての業績の頂点を極めたのであり、同時に又ギリシャ彫刻も そのクラシカル期の段階に入っていったのである。丁度蕾が一晩経つ内に 花となって咲き開くのと同じように、直ぐ直前において先立って存在したものとの関連に於いてさえも 過渡期というものが何一つ無いままに、このクラシカル期という段階が パルテノン神殿の彫刻物という形を採って到来したのであった。形の上の課題や 構図上での課題が卓越している許りではなくて、神話の題材の表現も卓越している上に 人物像の持つ気品も気高くて、このパルテノン神殿の彫像は すべてが何もかも全くオリジナルであり、光り輝いていて しかも壮麗である。オリムピアのゼウス神の神殿の西破風の彫刻では ケンタウルどもがラピタエ族たちの手で虐殺されている貌(さま)が見られるが、この神殿の南面のメト-ペの浮き彫り(図版 142 から 147 まで)では ケンタウルどもは最早そんな風に粗野で 狂暴な輩(やから)どもでは決してない。この場では彼らは、殆ど同じ条件でラピタエ族と争っており、打ち負かされている許りではなくて 又勝利者でもある。パルテノン神殿のメト-ペでは そういったような戦闘が表現され、新鮮で気高く あか抜けした光りを浴びているのである。本堂のケラ cella(訳注 130)の外面のずっと上の方に付いていたフリ-ズ(図版 148 から 163 まで)は、ドリア式 doric(訳注 131)のこの神殿の枠組の中に見られる 新しい特徴である。行進の到着するのを神々が迎えるというこのテ-マも亦 先例も無かったし、後に続くもので実在するものも 一つとて無い。両破風の上に見られる神話の上での広大なヴィジョンは それに劣らずユニ-クなものであって、この東破風(図版 164 から 169 まで)では、オリムポス山のお歴々の神々の立ち会いの下での アテ-ナ女神の奇跡的な生誕がテ-マになっていて、一方の側ではヘリオス神 Helios(訳注 132)が 自らの四頭立て二輪戦車を曳いて繰り出しており、他方の側ではセレネ女神 Selene(訳注 133)が 自らの軍馬を曳いて大洋の海水の中に進み入っているという そんな或る日に起こったことなのである。西破風(図版 170 と 171)で見られるテ-マは このアテネの砦から来た神々や英雄たちの居並ぶ前で、アッテイカ地方の土地の所有を巡って行われた アテ-ナ女神とポセイドン神 Poseidon(訳注 134)との争闘である。 |
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