p21/26 | B.C.4 世紀末になると、先行する時代に逆らう反作用であるとしか考えようもない傾向が、彫刻の分野でも 人の目を惹くようになって来た。ヘレニステイック期の彫刻の当初の 100 年間に起こったことであって、<簡素なスタイル>の期間とか <閉ざされた形態の期間>とかと通常評されている B.C. 3 世紀になるまでは、こうした傾向が十分な成果を挙げることはなかった。B.C.4 世紀の最後の四半期の間中には、ラムナスで出土した墓碑の浮き彫り像(図版 227)とか プラクシテレスの作ったヘルメス神の像(図版 228 から 231まで)とかの人物像のどれもこれもが なお一層活性化するような大きい動きが吹き荒れて、頑固に育ち始めている。はっきり見えるように軸を配列するというやり方が 人物像の構成をずっと長い間決定して来ていたが、今ではそのやり方に代えて、色々な器官を重ね合わせたり リズムを対比したりすることが、彫刻に欠くことの出来ない要素となった。人物像の内面の構成が、よりしっかりしていて ぎこちないとさえ言えるものとなり、同時に又 一段と入り組んだものとなった。嘗ては何時もそうであったように 飛び出していって空間にまで達するということは 最早やなくなり、その反対に、自分の周りのものからは引き下がり 注意深く考え抜いた末の周到なポ-ズを採ったり 動作をしたりすることで、中核を新しく創り出すということに 全精力を注ぎ込むようになっている。ヘレニステイック期の初期以降 競技者の裸像であるとか 着衣を纏わないアフロデイテ女神 Aphrodite(訳注 162)の像とかと並んで、衣服を纏った彫像もが 大きい重要性を獲ち得ることとなったのは、決して偶然の一致ではない。デルフイの美術館所蔵の哲人の像(図版 245)とか B.C.3 世紀半ばの直ぐ後で彫刻されている クニドスから出土した女神官のニコクレイア Nikokleia(訳注 163)の彫像(図版 246)とかに見られるように、織物の布は今では 身体からすっかり放免されており、構図の中で 独立の要素としての役割りを与えられていて、身体を支えるのか それとも身体を包み込むのか どちらかに役立つような、構成上のはっきりした効用を その構図の中で果たすよう求められている。この彫像では 美しい襞が付いており、カ-テンのように見えるキトンの垂直な襞と 更にその上面に着ている外套との後ろに隠れてしまって 身体の形が見えなくなっており、この外套の分厚い材質と 身体を横切って斜交いに走っている襞とは、長い下着に対して著しい対照を示している。 B.C. 4 世紀の半ばから 3 世紀の半ばまでの間に 衣服を纏った婦人のこうした立像が進展してゆくのにつれて 歩んで来た道のりを知るために、外部にある一切のものから自らを隔離した この厳しくも自制的な彫像に始まって、比較的明白で とらわれのない構成とスタンスとを持っていて、ペプロスとか 外套とかの扱いが比較的シンプルな ヴェニス Venice の美術館に蔵置されているデメテル女神の像(図版 206)に到るまでを ちらっと振り返って見るのも、それは仲々に興味深いことである。 アンテイウムの町 Antium(訳注 164)に程近い ロ-マ人の別邸で出土し、今はロ-マのテルメ美術館に収蔵されている 犠牲(いけにえ)の召使の像(図版 247)も亦、 B.C. 3 世紀の第 3 四半期の特徴を具えた 極めて典型的なスタイルの彫像である。この素晴らしく魅力的な作品の中で、作者はその媒体をうまく使いこなして 召使の束の間の勤めを記録した。歩行の動作をしている形で描写されたこの少女は、自らの勤めを果たすのに完全に夢中になっていて、左手に保持した丸い盆から犠牲用の器具か 又は奉献物を取り出している。構図の中の幾つかの主要な線がすべて この中心にまで達している。姿勢の向きと重ね合わせている手足の方向とか 着衣の方向と襞の方向とかが どちらも反対向きになっているにもかかわらず、この彫像も亦 外部にある凡ゆるものから きちっと遮断されているという印象を与えている。この彫像が 特定の一つの角度から眺められるように 意図して作られたことは、明らかである。その右側面から斜交いに眺めると、この像が芸術的に秀れたものであることが 一番はっきりと知れる。犠牲の召使のこの彫像の原作となったのは ヘレニステイック期にブロンズで作られた像であり、その原像は 壁面の前とか 壁龕の中とかに立っていたものに相違ないのであって、B.C.3 世紀の間中は フリ-の彫刻物がそういった場所によく置かれていたことは、文学的な拠り所からも克く知られている処である。アテナイオス Athenaeos(訳注 165)が(196 頁のaとそれに続く頁で)引用している ロドス島 Rhodes(訳注 166)出身のカリクセイナス Callixeinus の著作品からの抜粋が伝える処によれば、凡そ B.C. 270 年頃にはアレクサンドリアに プレトマイオス二世 Pretomaios Ⅱ(訳注 167)のために建てられた邸宅があって、卓越した巨匠たちの作った 100 もの大理石で出来た人物像が その長方形の柱の前に立っていたとされている。ヘレニステイック期初期に作られた ニムフ Nymphe(訳注 168)を祭った神殿の壁面に立っていた イオニア式 ionic(訳注 169)の円柱の間には、このアレキサンドリアを支配していた ( 21 ) |
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