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家系のメムバ-である 3 人の彫像が置かれていたことは、B.C.3 世紀前半に作られた 一つの詩の中に記述されている通りである。場所に対する個人の感覚の表現としては、この位置に彫像を置くことが その当時において一般的なものであったし、 B.C. 3 世紀に作られた浮き彫りのスタイルの中でも亦 はっきりと見られたものである。若しも お互いの人物像相互の間でも 背景面からも 人間の像が際立って孤立してしまっているのが、4 世紀後期の浮き彫りの中ですら 既にもうはっきり見取れるのであるとするならば、3 世紀の浮き彫りは その方向をもっとずっと進めて行っているのである。ヘレニステイック初期の浮き彫りの その本来の構成に特有なものと言えば、喩えて言うならば、一つ一つの人物像が 木とか 柱とか 円柱とかいった物体に 凭り懸かって自分を支えているということであって、構図の中では その物体は、一片の風景にも似た働きをしていて、しかも がっちりとした境界という印象であるとか 空間を幾つかの層にはっきりと分ける印象とかを 呼び起こすようなものなのである。

 小アジア地方から出土し、今ではヴェニスの美術館に収蔵されている キュベレ女神 Cybele(訳注 170)とアッテイス Attis(訳注 171)とに献げられた浮き彫り碑(図版 244)は、ニコクレイアの彫像とか <アンテイウムの少女像>とかと 同じ時期に作られたものであって、その碑では 主たる人物像は 2 つともどちらも独立して自前で描かれ、他から目につく程の間隔を空けて描かれている。その内陣の壁の前では神々が 彫像のような大きさで 彫像らしいポ-ズを採って立っており、右側の一片が半開きになっていて 遠近法を使って奥行きを狭くして描かれている扉の付いた 非常に丈の高いドアで その内陣の壁が途切れており、婦人の礼拝者が小さい召使いの少女を連れて そのドアを通り、この聖なる境内に入って来たところである。人物像と背景面とはこの浮き彫りの中で 異なっていてしかも対照的な芸術の 2 つの領域を割り振られている。クラシカル期と比較すると B.C.3 世紀には、浮き彫りの彫刻品が好んで作られることが殆ど無かったという理由は、恐らくは 浮き彫りの構成分子の間にこうした著しく正反対のものがあったことに因るものと説明出来よう。もともとそれは 塑像のようで しかも束縛のない彫刻物の期間であった。平面に向かっての人物像の勾配は 様々でなければならないというのが、直ぐ次に続く期間の浮き彫りのスタイルにとっては、欠かし得ない必要条件なのであった。

 然しながら ヘレニステイック期の彫刻史の中で この変質が意味しているものは、<閉鎖されている形態>を解消すること以外の何ものでもない。この変質は B.C. 3 世紀末期と 2 世紀の初めに起こったものに相違ない。最高の品質を持った傑作が本書の中に 2 つ示されていて、3 世紀の持つ<閉鎖されている形態>とか <簡素なスタイル>とかから、2 世紀の持つ<解放された形態>とか <情緒的なスタイル>とかに移り替わるのを はっきりと示しており、人を信服させずには措かないのである。その一つは、バルベリニ宮殿 Barberini(訳注 171-2)のコレクションに属し 今ではミュンヘン Munich のグリプトテック美術館 Glyptothek に収蔵されている <眠れるサテユル Satyr(訳注 172)>の像(図版 248 と 249)であり、もう一つは、B.C.190 年頃にロドス島の住民たちが シリアのアンテイオコス三世 AntiochusⅢ(訳注 173)と戦って、これを打ち破った勝利に対して 感謝の意を表わしてサモトラケ島 Samothrace(訳注 174)に寄贈した 奉献の贈り物としてのニケ女神の像(図版 262)である。長々と大の字になって横たわり 憂欝げな夢の中に沈み込んでいる 眠れる人サテユルのこの力強い像は、元々はその輪郭が 幅の広い平行四辺形にぴったりと合っていたのであるが、近年になって改作が施され、左腕と右脚のある場所が嘗てあった所とすっかり違えられてしまった。構図の焦点を中央に合わせるという仕来たりが B.C.3 世紀中期の彫刻の特性であるが、同じ 3 世紀の後期に属するこの作者は、この素晴らしい人物像の中では その仕来たりを棄ててしまった。より昔の作品と比較して見ると、そういうものとしての変化が 彫刻のこの形態にも亦見られている。より自由な形態になり 表面がより生き生きと変化して来ている。この肉付けの中では 光と翳とがこれまでにも増して 一段と大きい役割りを果たしている。表面が岩石の形をしている背景面にぴったりくっ付いている ミュンヘンにあるこのサテユルの像と較べると、サモトラケ島のニケ女神の像の方は、今でこそ束縛のずっとより少ない彫刻であるかのように見えるけれども、サテユルの像よりは随分とがっちり 平板にくっ付けられているのである。併しながら このニケ女神の像は、嘗ては壁面の前で 船の舳先(へさき)の上に立っていたものであり、その左側面から斜交(はすか)いにという 一つの特別な角度から眺められるようにデザインされていたということは、この像が出土した時の環境から見て確かなことである。あのペルガモンの祭壇にある 大フリ-ズが出て来る直前の前兆を この像が構築しているのであって、それは反対になった動きの線の中にも見られるし、身体にぴったりと絡み付いている織物もあれば 一方では畝になったり 蔭に充ちた深い谷になったりして描かれている織物もあり 更には 風に吹かれて気儘(まま)に膨れ上がっているものもあるという そのやり方の中にも見られるのである。

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