p23/26 | ガリア人の繰り返し行った攻撃を アッタロス一世が撃退した後は、ペルガモン王国はこのようにして その権力の絶頂期にあったのである。ガリア人は、B.C.280 年に マケドニア地方とギリシャとに侵入し、ダ-ダネルス海峡 Hellespont(訳注 175)を渡って 小アジア地方に定住し、その地で後年に ガラテイア人 Galatia(訳注 176)となった。アッタロス一世の息子であり 同時にその後継者でもあったエウメネス二世王 EumenesⅡ(在位 B.C. 197 - 159 年-訳注 177)は、B.C.180 年頃の数年間をかけてこの砦の山の上に ガリア人を制圧した勝利を神に感謝するための巨大な記念物として この途徹もなく大きい祭壇を建立したのであったが、大きさという点ではこれは ヘレニステイック期の芸術作品の中では 抜きん出て一番大きい連続した作品であった。この記念建造物の土台の周りを走っている 全長 120.7 m.( 396 ft.)にも及ぶこの大フリ-ズ(帯状装飾-図版 251 から 259 まで)の中では ペルガモンの人々が乱暴な蛮族に立ち向かって 勝利を収めた戦いという歴史上の出来事が、ギリシャ風に神話の領域で起こった出来事に置き換えられて、ギガ-ス族 Giants(訳注 178)に対する 神々の戦いとなっている。とても物凄く骨折っており、しかも情け容赦もなく残忍に、光のこの軍勢は 現世の悪神どもと戦っている。この争闘が重大なものであり、且つ残虐なものであったと言うこととの一致点が見られるのは、人物像が勢い良く手足を充分に伸ばしている その身振りであるとか、不安定な平衡を保っている その胴体であるとか、筋肉隆々たる裸体のトルソ像 torso(訳注 179)の表現であるとか 塊りになった織物の騒々しい衣擦(きぬず)れの音であるとか 更には両眼から前方に向かって輝き出ている感動といったものなのである。その形態の処理としては、外見から見る限りでは 仰々しい許りの大きさにまで達しているのであるが、<アンテイウムの町の少女>の像とか <眠れるサテユル>の像と比較すると、手堅さとか 密度の濃さとか 彫刻の勢いといったものは、失われてしまっているのである。 この大フリ-ズの浮き彫りは ペルガモンの祭壇にくっ付けられている 一つの飾り付けとしての装飾ではなくて、この記念建造物の建築物としての構成に中での 独立した構成分子なのである。浮き彫りの背景面は ここでは土台石の直立した壁面と同じものであり、その壁面の前に 人物像が立っているのである。芸術的な構成という点から見れば、これはクラシカル期に作られた浮き彫りとは 明らかに逆の、正反対のものである。クラシカク期の浮き彫り、例えばパルテノン神殿のメト-ペやフリ-ズの浮き彫り(図版 142 から 147 までと 148 から 163 まで)の中では 構図の持つ生命の中にまでこの背景面が加わり込んでいて、適応性があり 人物像を一緒に結び付けている。こちら側のペルガモンの大フリ-ズの浮き彫りでは、その背景面は 融通のきかない そして中には入り込めない壁の表面である。この建築物の持っている構造の中にあって 直立している表面や背景面が物質として持つ特性が 実在のしかも手に触れることの出来る構成分子として どの位強く感じられたのかといったこととか、浮き彫りの持つ架空の領域が この建造物の現実の構造をどの位力強く侵害しているのかといったことは、階段の北側堡の内面の側の上で 特にはっきりと見受けられているのであって、そこには一人のギガ-ス族が 蛇の形をした脚で階段を数段上方に向かって うねり進んでおり、その前面にいるもう一人のギガ-ス族は、その膝と手を 段の上に付いている。背景面が中に入り込むことを許さないものであるが故に、この大フリ-ズの浮き彫りの上に描かれた人物像は、外に向かって展開して行って 空間の中に入り込んで行く機会もなければ、その後方にある深みの中で 迷子になってしまう機会もない。この戦闘の前進行為をしていても、彼らに出来ることは 同じ平面の中で単に横に向かって拡がることだけである。一つの平面に対して 多くの人物像をこうやって揃えるのは、クラシカル期の浮き彫りに逆戻りをして行く始まりとなるものであり、古典を摸倣するという態度が見られる 最初のサインなのでもある。ゼウス神とアテ-ナ女神と、更には 両神の傍らに居る二輪戦車のチ-ムをも含めて 横に拡がったグル-プ像が この祭壇の東側の上に位置していて、この大フリ-ズの浮き彫りを作った巨匠は このグル-プ像を作るに当たって、ポセイドン神とアテ-ナ女神との巨大な像、更には馬が後ろ脚で立ち上がっている 両神の 2組の二輪戦車のチ-ムを描いている パルテノン神殿の西破風の彫刻の中央の部分に基づいて作っているのであるが、そのやり方の中に そうした態度の最初のサインも亦 見ることが出来るのである。 ( 23 ) |
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