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 B.C.2 世紀の後半に入ると、メロス島で出土したアフロデイテ女神の像(図版 270 と 271)を作ったこの巨匠が現われた。B.C.4 世紀の後期に作られていた ブロンズ製の大きい彫像をより気儘に使用して、この作者は 対照的な身振りとか 対立するテ-マとかを持ち出して来ることで、比較的シンプルで判り易いその構成を変えてしまい、冷ややかな美の持つ 情緒的でしかも仰々しいイメイジに この作品全体の性格を効果的に変質させてしまった。ロドス島の美術館所蔵の 大理石で出来た跪(ひざま)づくアフロデイテ女神の彫像(図版 273)には 異なった種類の変形の実例が示されている。ドイダルセス Doidalses(訳注 184)の作った かの有名な蹲(うずく)まるアフロデイテ女神の像では、四方八方を閉鎖されてしまっているという形の B.C.3 世紀半ばの構図が採られているのが見られたが、ヘレニステイック期後期のこの彫刻家は この作品の中でそのデザインを作り替えて、たった一つの面だけを眺める人に提供するというやり方を採り、たった一つの平面の中だけで 上体を捩(ね)じってみるとか、ばらばらになった頭髪をしっかりと掴むように 両手の位置を変えてみるとかして、このやり方を作り出しているのである。だんだんと欠けて来始めた人物像の精神面の手堅さを 平面に新しく結び付けるというこのやり方で 旧(もと)通りに戻すよう、ヘレニステイック期後期の芸術がどれ程努力したのかということを、この小像が明らかに示している。このことが B.C.2 世紀の間中何時もより偉大な芸術家の手腕で引き出されて来ている構図の原則に頼り切っている この<たった一ケ所からだけ眺められる>という人物像とか、グル-プ像とかの作られた意図である。ロドス島の 3 人の彫刻家 アゲサンドラス Agesandorus(訳注 185)とアテノドラス Athenodorus(訳注 186)とポリュドラス Polydorus(訳注 187)とが作ったラオコ-ンのグル-プ像の中でも この原則は貫かれてはいたが、その限界は 或る特定の一つの視点からこのグル-プ像を眺めた場合に限って 浮き彫りの彫刻のようなこの構図の持っている絵画的な効果が 充分に著しい効果を持っているということまでなのである。胴体をどれもが捩じっていたり 手足を重ね合わせたりしているだけではなくて、更には 修辞的な哀感を身振りに持たせてみたり、純粋に彫刻的な効果を求めて 益々努力することで、<たった一ケ所からだけ眺められる>彫刻は ラオコ-ンのこのグル-プ像に実例として示されているような その極限に到達したのであるが、ヘレニステイック期の彫刻は その後更に一段と前進することは出来なかった。アポロ神の神官であるこの男とその 2 人の息子とが 不幸にも巻き込まれることとなった 身の毛の弥立(よだ)つようなこの非運が、ヴァ-ジル Virgil(訳注 188)の手でアイネイド Aeneid(訳注 189)の中では トロイ Troy(訳注 190)の滅亡が差し迫っていることを予示する前兆として 生き生きと描写されているのであるが、同時に又瀕死のこのラオコ-ンの像は、丁度それと同じように ギリシャ芸術が終熄するシンボルであるとも見做されて来たのである。

 <たった一ケ所からだけ眺められる>人物像とか グル-プ像とかが幾つも作られている この年代の間中を通して、彫刻家の作業方法も 又大理石をカットする技法も もう少し以前の年代に較べて変化して来ているのであるが、このことは極めて当然のことであったに過ぎない。ア-ケイック期でも クラシカル期でも 大理石のブロックを加工するに当たっては、彫刻家たちは先ず初めに 人物像の粗い輪郭を切り出し、先端の尖った鏨(たがね)を ブロックに対して通常は直角に当てて、どの面からも均等に切り出して行った。外側から中心の方に向かって 一歩一歩仕事が進められて来ており、そのブロックの周囲をぐるっと歩き回り、その芸術作品をいつも全体として目を離すことなく見ており、四方八方どちらを向いても この人物像の輪郭が出来上がってしまっていて、やり残している最後のすべては 石に向かい合うことだけであった。先端の尖った鑿とハンマ-とを使って こうやって間断なく削ると言うことは 大理石を<叩いて潰す>ことであり、その独特な結晶体を破壊することでもあった。このようにして その表面は透明さを失い、鈍くてしかも柔らかく眼に映ったのである。幾百年も幾千年もの間、ギリシャの大理石彫刻には 温かい生命が恒わることなく生き残って来ていたが、この温かい生命が現われ出て来たのは、ヘレニステイック期に到る頃まで用いられて来た この制作方法に負う所が誠に大きい。ヘレニステイック期後期になると 単独に充分に自立している一つの有機体として、芸術作品の纏まりを求めている手探りが 間断なく先細りになっていて、更にその後期以降になると 人物像とか グル-プ像とかの一つ一つの器官を 全体との関連のないまま作り上げてしまい、他の器官は全体とうまくやってゆくよう 触れないままで残して置くのが 通例のことであった。機械的な手法、つまり分割コンパスとか 下げ振り定規とかの助けを藉りて その雛型を作り替えるというのが、ロ-マ時代の摸作者たちに典型的なやり方であった。出来るだけ滑らかでしかも透明な表面を手に入れるために、彼らは 大理石を<叩いて潰すこと>をしないよう 全力を尽くした。このために彼らは、先端の尖った鏨を使うことを止め、私たちが使っている斜角の 2 つ付いた鏨に似た道具を気に入って使ったのであって、彫刻家がその道具を使って 石を言わば層状にして 剥(は)いでしまったのである。                  ( 25 )

 
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