p26/26 | グレコ・ロ-マン Greco - Roman(訳注 191)の世界が、政治的無秩序からの救済者として アウグストス帝その人を授けた時代が、ラオコ-ンのグル-プ像の直ぐ後に続いたのであって、クラシカル期として既に認知されていたし、当代の彫刻家たちが自分自身のスタイルをその型に合わせて作ったり、本当にコピ-したりしている B.C.5 世紀と 4 世紀とに作られた諸作品の方に この年代が益々向きを変えているのである。 デルフイにあるキニク派の人の彫像とか B.C.3 世紀の後半の 50 年間に作られた マントを纏った人の彫像の一部の遺物である アンテイシュテラ島の沖合で出土した ブロンズ製の有髯の頭部像(図版 250 及びⅩ)とかでは、一人一人の目鼻立ちが一つのタイプとして ギリシャの哲学者の似顔に未だに結び合わされているのに反して、更にはこれらの頭部像は 限界をはっきりと明示されたシステムに従って 未だにデザインされており、その彫刻としての形態も 手堅さとか精神集中とかを 未だに持ち続けているのに反して、ヘレニステイック期後期に作られた デロス島で出土したブロンズ製の頭部像(図版 274 及びⅩⅠ)では、あらゆる点でその特徴となっていたものが、全体の雰囲気として だんだんと薄れて行っているのである。前掲の有髯の男性の像に見られる凝視が 真面目でしかも内面を見詰めたものであるのと比較すると、この像の顔の与えている印象は 絶え間なく問いかけていて しかも実現することのない疑いであって、彼の眼は 果てしなく探し求めて辺りを見回しているのである。そのモデリングは 動揺していて不安定であり、その外観も活力の効果が達成されるよう試みていて、落ち着きがない。 最後にカリア Caria(訳注 194)のトラレス Tralles(訳注 195)で出土した少年の像(図版 280 と 281)とか アルメニア Armenia(訳注 196)のサタラ Satala(訳注 197)で出土したアフロデイテ女神の美しい頭部像(図版 282)とかが選ばれているが、これはヘレニステイック期の後期か或るいは ロ-マ帝国時代の初期においては ギリシャの典型的な彫刻と相矛盾する可能性が見られるという考えを示すためのものである。概して言うならば、ラオコ-ンの像とか 少年の像とか ブロンズで出来たアフロデイテ女神のこの頭部像といった像の持っている この身悶えするような激しい特徴は、そのデザインやモデリングの持っている 古典主義的な簡明さとか 厳しさとかと相俟って、ギリシャ彫刻の最後に当たるこの時期の特徴となっている 強烈な不統一というものを、典型的に示すものとなっているのである。 ( 26 本文END) |
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