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 ギリシャ彫刻が生まれて来た根源は、都市国家の宗教上の生活の必要性と 公共社会の生活の必要性との二つの中にある。神を祭った聖域に置かれて 神々に捧げられたり、又は公共の場所に置かれたりした 奉献用の献納品であるとか、死者に対する敬虔な捧げ物といった物は、それが大小の彫像であろうと、奉献用の浮き彫りや 墓碑用の浮き彫りであろうと、又は神殿や 神庫や 器具類の飾り物の彫刻であろうと、そのどれもがこの二つの目的を持っており、ギリシャの芸術作品はすべてこの二つの目的から その意味が生まれ出ているのである。装飾という目的が、この様な敬虔な意図に 少なくとも或る程度まで結び付いていたことは 推測出来るかも知れないけれども、ヘレニステイック期 Hellenistic(訳注 09)に到る頃までは、ギリシャ彫刻が 美学に熱心な人々の娯(たの)しみのために作られたものではなかったということは、結構強調されて然るべきことなのである。

 ギリシャ人は、自分たちの神々を実在の人間であると見做した。ホメロスの叙事詩の中でも トロイ Troy(訳注 10)の人々の味方をして戦っている神々もあれば、ギリシャ人の助太刀をしている神々もいたし、- B.C.5 世紀のこの悲劇の中では、神々は 神話の英雄たちと並んで行動に参加している。- 又パルテノン神殿 Parthenon(訳注 11)の内陣を取り巻いている 大理石のフリ-ズ(訳註 12 -帯状装飾)にも同じように現れて、アテ-ナ女神 Athene(訳注 13)の大祭で 4 年毎に行われるパンアテナイア祭 Panathenaea(訳注 14)を祝うアテネの人々を、慈悲深く迎え入れているのである。そこでは 彼等は厳粛な行進をして、女神の聖域に近付くさまが見られている。神々は、永遠の若者の姿かたちをして住んでいるオリムポス山 Olympus(訳注 15)から降りて来たり、又は 大地や海の深部から現われ出て来て、人間の生活に実際に参加するために 折々こうして姿を見せるのである。雲を掴むようなこととか 曖昧なこととか 神秘的なこととかは、何一つとして見られない。ギリシャの上に隈なく照り注いで その風景を光り輝かせ、水晶に近いまでもの透明さでその特色を際立たせている この燦然たる陽光が、ギリシャ人の信仰に特性を与え、神々の個人的特徴を形成する手助けの役割を果たしている。神々がこうしてはっきりと実在しているということが、ギリシャの彫刻家の作品の中に 完全に映し出されている。これらの作品には 隠れた意味もなければ 曖昧な意味もなく、眼に見えることのない力の 単なる表象に過ぎないということも決して無くて、むしろ いつもその主題を、事実に基づいてはっきりと ひたむきに表現したものなのである。

 仮令(たとえ) それが公共の制作依頼のあったものであったにせよ、或るいは市民から寄贈されたものであったにせよ、ギリシャの彫刻家の作品は、凡ゆる宗教的活動とか 政治的活動とかの源泉であり 又その中心でもあった国家との間に、何時も必ず 大なり小なり 幾らかの直接の関連を持っていた。公共生活なり 宗教生活なりに対してこうした密接な関連を持っていることが、ギリシャの彫刻家の作品の形と内容とを決定しているのであって、そのことが単に ギリシャ彫刻全般の発展の 内に秘められた必然性を説明している許りではなくて、更に又 同時に、その調和の採れた形態の持つ意味をも説明しているのである。嘗てあった宗教上の信仰が、だんだんと色褪せて衰え、ギリシャの都市国家も途絶えて存立しなくなった ヘレニステイック期になって始めて、ギリシャ彫刻は、最早主として 作者が持っている任務というものから出て来る制約で決定されるのではなくて、だんだんと 作者自身の個性とか 芸術作品にあっては従来は余り例が見受けられなかった 興味というものを持ち始めた公衆とかによって、主として決定され始めたのである。B.C.3 世紀以降になると、芸術の理論というものが目立つようになって来ていて、そうした理論への関心が育ってゆくということが、ギリシャ彫刻が発展する兆しを示す特徴なのである。作者の伝記に関する情報の校合(きょうごう)が行われていることは、歴史的な調査への興味が発生し始めていることを示していて、その一番最初の代表的な人物の中には、最高のランクにある二人の博学な著作家であった アテネのクセノクラテス Xenokrates(訳注 16)と カリュスト Karystos (訳注 17)のアンテイゴノス Antigonos(訳注 18)とかが含まれていた。ペルガモン Pergamon(訳注 19)のアッタロス一世 Attalos Ⅰ(訳注 20)(在位 B.C.241 - 197 年)は、数多くの有名な古い彫像をギリシャ本土から集めて コレクションを作り、自らの住居の中に展示したが、この収集品も 同じ方向を示しているものであった。後年になって デイアドコイ Diadichi(訳註 21)の領土が ロ-マ帝国の興隆によって併合されるに到って、こうした英雄的で芸術的なコンセプトも次第に消え失せ、

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