p13/26 | アッテイカ地方では ギリシャの他の何れの地域と比べても ア-ケイック期の彫刻の発展の跡を よりはっきりと追っ掛けることが出来る。大理石とか 石灰石とかで出来ている大きい彫像が この地方には夥(おびただ)しくあって、B.C.7 世紀末以降の芸術の発展を 10 年毎に見戍(まも)って、新しい趣向が出現したり 外部の影響を吸収したりしているのを はっきり見分けることが出来るのである。<ラムパン Rampin の頭部像を作った巨匠>といったような芸術家の一人一人の個性というものが、アッテイカ地方の彫像の中で 他の大勢の彫刻家から突出して目立っている。ニュ-ヨ-クの若者像(図版 11 から 13 まで)は 7 世紀の終わりに彫刻されたものであり、ベルリンの美術館に収蔵されている柘榴(ざくろ)を手にした女神の立像(図版 20 から 23 まで)は 6 世紀の初めに彫刻されたものである。その構成が良く引き締まっていて、紛(まが)う方もなく肉体が存在している貌(さま)から見ても、女神のこの立像は、柔らかく丸味を帯びて だんだんと上に伸びて行っている まるで円柱のような ケラミュエスの奉献したサモス島出土のヘラ女神の像(図版 32 と 33)と並んで、初期アッテイカ地方で作られた作品の双璧である。B.C.570 年頃になると アッテイカ地方では、仔牛を担いだ人の像(図版 24 と 25)とか アテネのアクロポリスの丘の上にあったアテ-ナ女神の古神殿の ポロス石 poros(訳注 97-多孔性石灰石)で出来た破風彫刻(図版 26 及びⅠとⅡ)とかが作られている。この破風彫刻の片一方には トリトン Triton(訳注 98)を征服しているヘラクレス Hercules(訳注 99)が描かれ、他方には 胴体が 3 つある怪物が描かれている。ル-ブル美術館所蔵の有髯の頭部の付いた騎馬者の像(図版 30 と 31)とか 円盤を担いでいる人の像の付いた墓碑の断片(図版 39)とかは、6 世紀の半ば以前に出来たものである。アテネのアクロポリスの丘の女神に 奉献物として捧げられた 幾つものコレ-像が 夥しい数の 長いシリ-ズになって始まったのは、この年代のことである。この本の中では 目立った作品が 2 つ例示されている。丈長のペプロス peplos(訳注 100)とキトン chiton(訳注 101)とを着たコレ-の像(図版 43 から 45 まで)は、<ラムパンの頭部像を作った巨匠>の もう少し後期の作品であるが、ヴァチカン美術館 Vatican 所蔵の エキセキアス Exekias(訳注 102)の両把手の付いたアムフオラ amphora(訳注 103)と呼ばれる壺の上に 美しいオネトリデス Onetorides(訳注 104)に讚美を与えている姿で描かれたレダ(訳注 105)の像に非常に良く似通っていることから見て、B.C.530 年頃に作られたものと見られよう。現在はコペンハ-ゲン Copenhagen にある 等身大より大きい寸法の 若者の頭部像(図版 46 と 47)は、レイエ Rayet(訳注 106)の頭部像の名で知られており、当時のアッテイカ地方の主導的な彫刻家の手になる 優れた傑作なのであるが、これも凡そ同じ頃の年代に作られたものに違いない。ハンサムなリ-グロス Leagros を褒め称えているアッテイカ地方のそれらの壺とか パナイテイオス Panaitios とかの スタイルの上でのそんな面は、デルフイにあるアテネの住民の神庫にあったメト-ペの彫刻(図版 79)の中に具体化されている。このメト-ペの彫刻は B.C.6 世紀の最後の 10 年間に作られたものである。見事な畝の付いた緑色のキトンを着て、外衣を斜(はす)交いに掛けた 上品なもう一つのコレ-の像(図版 80 と 81)の方は 大理石の処理の仕方が他と異なっており、外形上のボキャブラリ-が全体として 非常に洗練されている点に於いて、B.C.6 世紀におけるアッテイカ地方の彫刻の 究極の絶頂点を表現したものである。その物思いに沈んだ容貌の中に 映し出された乙女の心の生気は、ア-ケイック期のスタイルの持つ制約を乗り越えて、新しい発展が現われ出て来ることを 前もって示しているのである。 B.C.6 世紀から B.C. 5 世紀への移り目の年代は、ギリシャ芸術にとっては その自らの発展にとって測り知れない重要性を持つこととなった 大きい変化が見られた年代であった。これらの変化は、精神面で はっきりした変貌のあったことを示しているものであって、芸術の何れの領域の中でもすべて その影響が見られている。神話的な集団思考の形式とは手を切り、自らの個性を自覚するという これまで余り知らなかったやり方で、この年代になって 人々が目醒(ざ)め始めている。責任のある決断を保持して 宗教や国家が作り出した諸々の要求に直面する一人の個人として 自ら名乗り出た時こそが、誰しもに大切な瞬間なのである。それと同時に彼は、生存することが 運命であると意識するようになり、その運命からは逃れることも出来ず その運命の容赦することのない諸要求にも 妥協して纏めなければならなかったのである。これらの初期の年代の アッテイカ地方の悲劇の中で テスピス Thespis(訳注 107)がコ-ラスに向かい合って据えた ただ一人の俳優に加えて、エスキュラス Aeschylus(訳注 108)は、もう一人俳優を付け加え そうすることで B.C. 5 世紀のドラマを補足して 完全なものにする演技が出来るような 素地を用意したのであった。その色艶(あで)やかな無頓着さというものが、彫刻に世界では 今では最早見られなくなった。あの<ア-ケイック・スマイル>も姿を消してしまい、真面目で 屡々元気なくさえ見えるような表情に変わった。古くからある束縛を打ち毀わし 固定した枠組みから人物像が脱け出しており、正面に向かって 自らをまともに示して見せるという法則を 徹底的に打ち毀わしたのである。 ( 13 ) |
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